悲
最近話題がないから川崎市の中学生殺人事件が大きく取り得あげられていますが、主犯格の18歳の少年、これからどうなるんでしょうね。
たぶん、服役してやがて戻ってくるのでしょうが、まあ、まともな人間になって戻ってくるとは思えない。
かつてコンクリート殺人事件という残酷な事件があったけど、加害者たちはもう娑婆に戻ってきているみたいですね。最近はネットでこうした人たちが何をしているか真偽のほどは定かでなくても、情報が流布していますが、あまりまともな人間になってはいないみたいですね。一生監視され続けるのかと思いもしますが、人様の一生を奪ったんだからこうした白眼視は仕方ないのかもしれません。
メディアは社会の責任などと口にしたがりますが、俺ぁこんな奴に責任なんかもっていねぇぞ。なんでこちらまで責任がのしかかるんだ?メディアに責任があるというなら「そうですよ」と同感できますが。
じゃぁ、我々社会の一員が何をできるかって言ったって傍観するか?しっかり償って出直せと背中押しつつ窮地に押しやるか、ろくなことはできないのだから、慈悲を持つこともできないし、慈悲が通用するような輩でもない。
ところで、「慈悲」って何だろう?「慈悲」の「慈」は慰めたり励ましたりなんでしょうが、「悲」はどういうことなんだろう?
1970年代に中村雅俊が「ふれあい」の中で♪こんなとき そばにいて 肩を抱いてほしいと♪とその思想を述べていますが、「悲」はこういうことなんでしょう。
この犯人たちだって励ましや慰めを受けて育ってきたんだと思うのですが、「悲」はあったんだろうか?
と、考えると、こうした少年たちのグループって案外「悲」で繋がっているような気もします。大人たちは励ましや慰めは与えてくれますが、黙って肩を抱いて寄り添ってくれることはできません。
落ち込んだ少女の肩を抱いてだんだんその手がしたに下がってお尻にまわり、空いた片手が胸をまさぐりなんてことになったらさらなる問題になりそうです。
若者だって昨今の世情を考えれば、中国や韓国ほどではありませんが「落ちた犬は叩け」の気配が漂っているので、さらなる虚勢を張らねばなりません。
「悲」を共有できる仲間が集まり、何か勘違いして方向性を見失う。なんだかそんな集団心理が事件の背景に見え隠れしますが、加害者も被害者もその周辺も弱い人間の集まりだったんじゃなかろうか?
理屈があるかないかの違いで、学生運動の内ゲバに背景がにているような思いもします。
牙をむくなら自分より強い相手に向けなければ。
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