のすたる爺や

日々の出来事ちょっとしたエッセイ。

西

のすたる爺や

130711a  武尊山のふもとで昨年、ニホンミツバチの巣を見つけた枯れ木の近くを通りがかったので様子を見に行ったらクマに掘られていました。

 そんな予感はしていたのですが、まったろくなことをやらかさない奴らです。

 スズメバチの巣でも退治してくれればちょっとは見所ある連中じゃないかと評価が上がるのに。

 ところで、この武尊山(ほたかさん)の名前の由来はヤマトタケルノミコトで、東征の際に今の前橋付近まで来て地元民にてこずり、嫌気がさしてきたことや、関東に向かう船が荒れた海で難航したときにタケルノミコトの妻のオトタチバナノヒメが海に身を沈めて海の怒りを納めたことを思い出し、「あづまはや世におらず」と嘆き悲しみながら都へ帰っていった伝承から、群馬県にはヤマトタケルノミコトの統制に由来する地名が多いのです。

 「吾妻郡」「東村」「四阿山(あずまやさん)」など「あづまはや」に由来する地名や、「北橘」「南橘」などオトタチバナノヒメに由来する地名が多々あります。

 大和朝廷に組み込まれることを跳ね除けた私達が住む界隈が「日本」に組み込まれたのは秀吉の時代以降でしょうか?今でもお役所の言うことを嫌う偏屈な人が多い土地柄です。

 たぶん日本は九州方面か奈良県かはともかくとして西側から東へ勢力を伸ばしてきた国家で、ヤマトタケルノミコトは古代群馬県人に跳ね除けられましたが、歴史の多くは東へ向かうことで成功してきた国家です。

 歴史的に興味深いのは平安時代末期に平清盛が福原遷都を行い、今の神戸の一角のスケベオヤジ御用達のお風呂なんかがある地域に首都を持っていく「西へ」の勢力移行がありました。結果、平家は滅びましたが、源氏が勢力を蓄えていた東に目を向けず西のさらに西の大陸との交易を狙っていたのでしょう。

 西に向かって失敗したのは豊臣秀吉も同じで、首都を大阪に持ってきて、朝鮮半島から大陸まで勢力を伸ばそうとして失敗しました。とどめに関が原では「東軍」に敗れています。

 鎌倉から京都に戻した足利氏の室町時代は大陸に朝貢外交したかと思えば、都では疫病が蔓延し、倭寇は勝手に半島や大陸で暴れまくるし、10年も続いた応仁の乱で京都は焼け野原になった挙句一応和睦と言う名目で集結したけど実質「東軍の勝利」で戦国時代に突入します。

 案外、旧日本軍も日本から見て西側に位置する半島と大陸に勢力を伸ばそうとして、ジンクスに破れたのだろうか?

 日の沈む方角の国々はそこそこ適当にあしらって、日の出の方角に全力尽くせって言うことなのかな?